薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

差別と区別

差別と区別って、どのレベルなのだろう。僕がうつ病になって、その後一時職場復帰したとき、以前はそれなりに好意的な態度を取ってくれていた女性、なにかふたりの間にロマンチックなことでも起これば、そういうことになっても構わないかもしれない、ぐらいの態度を取っていてくれた女性が、もう僕など恋愛対象にはなり得ないと、あからまさに態度が変わっていた。うつ病になってしまった人間といい仲、つまり性的な関係になる可能性はないということだった。


もちろん僕がうつ病だったのはいまから十年以上も前だから、いまは少し世の中の認識も変わっているだろう。女性たちも、うつ病だからって、その人が恋愛対象にならないなんてことはないです、あくまでその人の人柄です、などと口では言うのかもしれない。


しかし、全く嘘偽りなく、心からそう思っていたとしても、実際に自分がその立場になると、どうなるかはわからない。実際自分がそういうときどうなるのか。自分が主義信条としてそう思っていたとしても、当事者としてそうなったとき、自分という人間はどうなるのか、自分は本当はどんなやつか、ということを考えてみない人も多い。


口では立派なことを言う、自分はそうだと思っている。
口でいうことと、当事者としては異なっていて当然だろうか。
ありうべき社会の理想と、自らの実人生でのことは、異なって当然です、ということだろうか。


そうでなくても、たとえばわたしは、同性愛者の人同士が結婚してもいい、誰を好きになろうと自由だ、と思ってはいるが、目の前で男同士がキスしたりセックスしたりしてるのを見たら、嫌悪感を憶えるだろう。男と女だとウホっと思うのに、キモチ悪いと思うだろう。キモチ悪いと思う自分はイケないのかもしれない、と思いながら。


正直ここらへんは、よくわからない。いろんなことを混同しているのかもしれない。自分もいろんなことに関しては口だけの人間だ。そうじゃないわけは絶対にない。


ただ、同じことを言っていても、口だけの人間と、何かに関して当事者になったことがある人間はやっぱり違う。もちろんどっちが良くてどちらかはダメというわけではない。ただやはり決定的に異なる。


当事者になったことがある人でも、当事者になったことがない人に対して、批判的な人や、被害者意識を持つ人もいる。ただ、自分は、普通の人間が、たまたま当事者になってしまっただけだ、と思いたい。


どこからが差別で、どこからが区別だろう。


人はわたしに自分のことを書けという、でも書こうとすると、そういうことは書くな、と言われる場合がある。でもそういうことを抜きに語れないことでもある。人が見ないようにしている箱に手を突っ込むな、と言われる。あなたなら、それが誰よりも上手く語れるはずだ、と言われたこともある。でも、どうすべきかよくわからない。書けば、自分もまた、エラそうなことを言っているだけになるかもしれない。この文章がそうであるように。

 

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