薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

童貞、東京に現る(10)

はじめから読む。

童貞、東京に現る - 薫の下流日記

 

 サッシを開けて中に入ると、電気を点けてない部屋は暗く、電気を点けようかと思うと、ローテーブルの上に置いた携帯電話が振動し始めた。着信を知らせるように、暗い部屋の中で携帯のランプが緑に点滅している。しばらくそのまま見つめていたが、思い切って電話を取った。
「ご飯食べてた?」と彼女は言った。何気ない振りを装っているが、いつもよりどこか神妙な感じのする声だった。
「もう食べたよ」と僕は嘘をつく。もうこれっきりにしようという電話なら、かけ直したくはないだろう。僕にもなんとなくそれぐらいはわかる。
 部屋の明かりも点ける。自分のからだがはっきりと見える。
 これから、もう電話でのやり取りは止めにしようと言われるのだと思うと、僕はあらかじめこうなるべき結果にたどり着いたようで、逆に何か気持ちが楽になるような気がした。やっぱり僕はおよそイボ好きのする男。僕がもうイボなのだ。

 彼女は何も言ってこない。
 黙って待っていると、
「わたしのこと騙してないよね」と唐突な感じで言った。
 えっ、と声が出そうになった。何を言っているのか僕にはよくわからない。
「だから東京に来ない」と彼女が言うので、えっ、とまた僕は声が出そうになった。
「オレが東京に」となぜか僕がオレになっているぞ、と思いながら僕は言っていた。
「だってわたしが広島に行くのはいくらなんでも」と彼女は言う。
「なんか、へんな感じになったけど、東京に来てくれるかな?」
 携帯電話から聞こえるその声は、凄く真剣で、不安そうな声に聞こえた。
「うん、行くよ、東京に」と僕は答えていた。そう答えたが僕は本当に行くつもりなのだろうか。いや、行くつもりなのだ僕は。
「うん、じゃあ約束だね」と彼女は言った。

 電話を切ってから、本当にこれでよかったんだろうか、と僕は思った。
 お互いに電話で話している方がいいのではないか、という気持ちが強くする。彼女は実際に会ったら、僕にがっかりするに違いない。じっと考えていたらいつの間にか時間がすごく経っていて、もう真夜中近くになっている。寝て起きたら、また明日ネットカフェに働きに行かなくてはならない。そしてひとりの部屋に戻ってきて、そしてまたネットカフェに働きに行く。
 またじっとしていたら外から雨音が聞こえてきて、すごい勢いで、あっという間に、ものすごい雨音がしはじめた。降ってくる雨が、いろいろなものにぶつかり、音をたてている。じっと雨音を聞いていたら、僕も雨に、音をたてられたくなった。
 透明なビニール傘を持って、外に出た。いったい僕は何をやっているんだろう、と思ったが、傘をさすと、雨がぶつかって、すごい音がした。
 人通りのない真夜中の町を、ひとり歩いた。傘にぶつかり続ける雨の音を聴きながら、ひとり歩いた。この町に住む人のことを誰も知らない。突然訪ねていったら、警察を呼ばれてしまうだろう。そう思いながら、明かりの消えたたくさんの窓をひとつひとつ見て、僕は真夜中の町をひとり歩いた。

 新幹線は東京に向かっている。窓から、通り過ぎる山や川や町が見え、しばらくすると、大きな町に停まり、また、山や川や町が通り過ぎていき、また大きな町に停まる。僕は外の景色にも飽きてしまった。光の加減からか、まるでとてつもなく巨大なジオラマの中を進んで行っているかのような気がした。
 僕はもう貯金もない。東京での宿泊費を彼女が出してくれることで、やっと僕は東京に行けることになった。僕は新幹線の切符代を、やっと払えるほどの貯金しかなかった。


 そのうち僕は眠ってしまい、次に目が覚めた時には、まばらだった車内の座席は、見知らぬ人たちでうまっているのだった。外を見ると、僕の目に、家ばかりが何処までも並んでいる広い平野が映り、夕日をあびた雲が不思議な形をして浮かんでいた。ぼおっと眺めていると、段々とビルが増え、その高さがどんどんと上に伸びていき、やがて列車は徐々にスピードを緩めながら、ビルの間を進んでいるのだ。景色はもう夜となり、アナウンスがそろそろ品川駅に着くと言っている。周りに座るビジネスマンなど、半分ぐらいが降りるようだが、僕は東京駅まで行き、そこから山手線で新宿に行くことになっている。


 東京駅に着き、新幹線ホームから下りて、僕はその人の多さに驚いてしまった。たくさんの人達が行き交っていて、すべて僕が知らない人達なのだ。電話をするがなかなか彼女につながらない。やっとのことでつながり東京に着いたことを知らせるが、電波状況が悪いのか、「じゃあ、次は新宿に来て」とだけ言って、彼女の電話は切れてしまった。
 来てと言われても、どう行っていいのか僕にはわからない。説明書きによると、中央線か山手線で行けるようなのだか、山手線には二つの方向がある。僕にはどれに乗るのがいいのかわからない。何度掛け直しても彼女にはつながらない。目の前を、終始人が行き交っている。


 僕は山手線に乗ることにした。見知らぬ人達と同乗する列車が、ビルばかりの町をすごいスピードで進んでいく。車内の広告は、僕がほとんど見たことのない会社のものばかりだ。彼女から電話が掛かってきた。もう彼女は新宿について、山手線のホームで待っているという。僕は彼女と出会いやすいように先頭の車両に乗ったと伝えた。先程通過した駅の名を言うと、彼女はそれは逆周りだという。僕は東京の町を大回りしながら、彼女の待つ新宿に向かっている。だが、それがどうしたというのだろう。遠回りしようと、たどりつく場所があるのだ。


 僕は新宿駅の山手線ホームに降り立った。あたりにそれらしき女性が見当たらないので電話をかける。電話が彼女とつながり、彼女を見つけられないことを伝えると、「え、いるよ」と彼女は言う。以前携帯メールで送ってもらった、彼女の写真に似た女性を探すが、どこにもそのような女性の姿は見当たらなかった。携帯電話から彼女の声は聞こえるが、僕がどんなに見回しても、彼女はどこにも見当たらないのだった。
 突然携帯電話が切れた。そしてそれからじばらく待っても、彼女は僕のいる場所には現れないのだった。

 

 

 

(第一章 第一稿 完)

つづきを書けるところがあるといいのですけどね。お読みいただいた方がいましたら、どうもありがとうございました。