薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

童貞、東京に現る(9)

 きれいと言った割には、医者はすぐさま手を洗い出し、しかもかなり念入りに洗っている。医療用のゴム手袋をはめていたくせに、念入りに洗っている。
 パンツとズボンを穿き直し、コンジローマではないんですか、と訊くと、医者は素早くタオルで手を拭き、机の上の本をめくり、僕にこれですよ、と見せた。


 目を背けたくなるような、でも見たいような、イボだらけの歪な女性器や男性器や女性器や男性器の写真がある。あなた、こういうのがね、コンジローマです。こういうのが、性器や、男性の同性愛者のかたなどは肛門に泡が吹いたように出来たりするんです。あなたのは違います。


 私のは何なのでしょうか、と僕が聞くと、あまり専門的に言ってもあれだと思いますので、まあ掻きすぎてできたものというか、老化で出来た、イボの一種のようなものだと思ってください、と言われた。僕はまたイボだらけの自分が頭に浮かぶ。
「そ、それじゃあやっぱりうつるのではないのでしょうか、あの僕にも彼女とかできてもいいですか」と僕がいうと、医者は一瞬なに言ってんだこいつ、という顔をしたが、「ああもちろんです、数も増えてないようですし、お互いに血だらけになるほどならですが、まあ大丈夫だと思いますよ」と言った。
「で、でも僕は昔イボの治療で苦労したので」と追いすがったが、私も首にイボがありますが、妻にイボは出来てません、ほらね、と医者は僕に自分のイボを見せた。
「イボのウィルスはですね、からだから消し去ることはできないんです。いま、あなたとイボは調和しているんでしょうね」と医者は言った。僕には納得できるような、承服しかねるような回答だった。

 外に出ると、前の車道の軌道敷を、路面電車が大きな音を立てて走りすぎて行った。
 僕が立っている歩道を、下校途中なのか、女子高生がまた、吸い付きたくなるようなしろい生足を、短めのスカートからむき出しにして歩いて行った。なんでそんなことをするのだろう。僕はこのままではいつか女子高生に性犯罪を犯すのではないかという不安な気持ちになる。その瞬間、ズボンのポケットに入れていた携帯電話がぶるぶると震えて、へんな体勢になりながら取り出すと、彼女からの電話だった。
 通話ボタンを押して、「もしもし」と言うと、
「どうだった」と言う。
「なんでもなかったよ」と僕は答えた。風が少し強く吹いていた。



 いったいなんだろうと思った。
 彼女が、大事な話があるから、と電話で言ったのだった。
 夜にまた電話をかけるとだけ言って、電話が切れた。
 一晩経って、やっぱり冷静になって考えてみると、性病疑惑で病院に行くような男とは、親しくしていてはいけない、と思ったのだろうか。遠く離れた場所に住む、会ったこともない男と、電話で話していてはいけない、と思ったのだろうか。
 僕は夕方の、西日の射すアパートの部屋に戻ってきて、彼女と電話で話した後に寄っていた、スーパーのビニール袋を床に置いた。


 部屋に戻って来ると、これから何をしていいのかわからないような気持ちになって、僕はベットに腰かけた。部屋の中が薄暗くなってくるので、電気を点けないとな、と思うのだが、腰を上げて立ち上がり、丸い蛍光灯から伸びた紐を引っ張ろうとする気が起きない。


 それでも、そのまましばらくベットに腰かけていると、何かしないと、という気持ちになった。体が重いと感じる自分自身が嫌になって、ベットから腰を上げると、窓から建物の間に沈んでいく橙色の夕陽が見えた。サッシを開けて、ベランダに出ると、どこか自分のものではないかのような重い体に、外の空気が触れる。


 夕方の街を、みんなが家路に急いでいた。少し離れた電車通りの方から、路面電車が走る音や、車が通り過ぎていく音が微かに聞こえてくる。前に、少し弛んだように張られて見える電線に、等間隔でツバメがとまっていた。

 夕陽はいつの間にか見えなくなって、西の空だけが橙に染まっている。あたりは薄暗くなってきていて、電線にとまっていたツバメたちも、いつの間にかいなくなっている。


 向かいのビルの一階にあるクリーニング屋の明かりが、暗くなり始めた街の中で目立っている。店の中に、パートなのかおばさんが一人立っているのが見える。あのおばさんは一人暮らしの人なのだろうか。それとも家族がいて、生活の足しのために、パートタイマーとして働いているのだろうか。あのおばさんにも喜びや悲しみや絶望があって、そして結局はみんな死んでいくのだ、と思った。誰にも知られず、そんな人などいたことも記憶にも記録にも残りはしない。僕もおばさんも寂しいのかも知れない。でも、どうすればいいのだろう。おばさん、僕とセックスしましょう、と言えばいいのか。それに僕はあのおばさんとはセックスしたくない。あのおばさんだって、あのおばさんでさえ、僕とはセックスをしたくないのだ。じゃあ僕はどうやって、僕が生きているということのこのもろもろを、どうしていけばいいのだろう。
 明かりの中にいるおばさんを僕はじっと見つめてしまった。
 完全に日が落ちたのか、あたりはもう夜になろうとしている。

 

kaorubunko.hatenablog.com