薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

童貞、東京に現る(7)

 次の日、目が覚めると携帯の着信ランプが点滅していて、約束通りちゃんと見せに行くこと、ヒロ子。と打たれたメールが入っていた。


 夕方には、彼女からちゃんと見せに行ったのか、確認の電話がかかってくることにもなっている。昨日電話の終わりしなに、僕は最後の抵抗をした。なんでそんな、直ぐ行けなんて言われなければならないんだ、ということを言うと、将来女性にうつすかもしれないんだよ、そんな無責任で身勝手な人だとは思わなかったよ、ということを言い、そんな人ならもう電話はしないよ、明日確認の電話もするよ、と念を押されてしまったのだ。
 そう言われてしまうと、もう行くよ、と言うしかない。

 人があまりいないだろうと思われる午後三時に、僕は泌尿器科の藤澤医院を訪れた。初めて訪れる泌尿器科。緊張しつつ扉を開けようとしたとたん、僕は異変に気づいた。
 確かに藤澤医院は泌尿器科だった。しかし、なぜか産婦人科までを兼ねている。入り口のガラス扉にそう記されていた。僕が電話帳の広告を見たときには、そんなことはどこにも記載されていなかったというのに。


 すぐさま引き返そうかと思ったが、僕はもうガラス扉を開けようとしていて、受付の女性看護師と目があってしまった。その中年の看護師は、僕に微笑みかけた。目があった中年看護師の横に座っていた、まだ新米らしき若い女性看護師とも目があった。
 ふたりとも微笑んでいるが、一体なんなんだろう、と内心思っているようでもあった。
 病院の入り口前に、扉に手を伸ばしたままの姿勢で、立ち止まったままの男がいるのだから当然だ。
 じっとこちらを見ている。僕は扉を開けなかに入った。しかし向こうは、えっ、入ってきたの、と思っているようだった。


 土足厳禁のようで、入って直ぐのところに下駄箱があり、スリッパも置いてあるが、なぜかすべて女性用の大きさで、僕が履けるものがない。しかし今さら帰れないので、いちばん大きそうなのを選んで無理に履いた。踵がはみ出した。待合室にいる人すべてが僕を見た。男が誰一人いない。みんな女だ。ここは純粋な泌尿器科というよりも、主に町の産婦人科、女性向けの泌尿器科なのだ。それくらいなんとなく僕にもわかった。
 二人ほど、お腹がふくれているらしき人がいる。他にはおばさんと二十代前半の女性。全部で四人。看護師もあわせて六人。六対一だ。僕は戦うわけでもないのにそう思ってしまった。


 聞こえるかどうかぐらいの音量でクラシックが流れている。壁には、展示即売会で売られているような、パズルによくあるような絵柄の、アメリカっぽいポップな絵がかかっていた。壁や床はやわらかいクリーム色だった。


 初診の方ですか、と中年のベテランらしい看護師にやさしく声をかけられた。となりの若い看護師も、微笑みながら僕を見ている。
「すいません、はいそうです」と僕が保健証を出しながら答えると、カウンターの上にある順番表に名前を書くように言われ、その後椅子に座って待っているようにそくされた。
 マガジンラックにいくつか雑誌が置いてあったので何か読もうと見たが、女向のものしかない。周りがすべて僕を拒絶しているような気がする。女性たちに、なんだか盗み見られているような気がする。
 椅子に座って、太らないヘルシー料理、すっきりおしゃれな部屋作り、なぜあの人は独身に見えるの、という記事に目を通していると、ベテラン看護師に僕は名前を呼ばれた。


 今度はカウンターの上に、診察前に記入するらしいアンケート用紙が置いてある。若い看護師にボールペンを渡された。
 氏名や年齢を書き終わって、一つ目の質問事項に記入しようとすると、ペンが止まってしまった。なぜご来院されたのですか、と書いてある。
 何も書かずに止まっているので、カウンターのふたりがこちらを注視しているような気がする。
 このままじっとしていると何か言われそうだったので、性器にできものができたから、と思い切って書くと、ふたりの看護師の、何か持っている空気が変わった。


 僕はまた椅子にかけるようにそくされた。横目で見ていると、僕が書き終えたアンケート用紙を、冷静な顔を装ってベテラン看護師が診察室の方に持っていっている。
 それからなにか小声で話し合っているような気配があるのだが、もちろん声は聞こえない。じっと様子を伺っていても、看護師は戻ってこないので、僕は周りに座っている女性たちを見た。


 何か僕は、気後れを感じる。ここにいる全員、処女ではないはずだ。十年前に初体験を終えたとして、少なく見積もって月一回だとしても、もう百二十回もしているのだ。それなのにまるでなんでもない顔をしている。僕と彼女たちは同じ人間と言えるだろうか。日常的に、自分の胸を人に吸わせたりしているのだ。何だか、人の女性とはこんな姿をしていただろうか、という気になる。奇妙な生き物を見ているときのような気持ちになっていると、僕はまた看護師の人に呼ばれた。


 いつのまにかベテラン看護師は戻っていて、手に白い紙コップを持っている。黙ってさし出すので、お茶でも飲ませてくれるの、と思ったら、これに尿を取ってくれと言われた。あそこにあると言われたトイレに入ると、壁に張り紙がしてあり、ここのなかに置いてください、と小窓がある。壁を隔てた隣から、コップだけを回収できる作りとなっているようだった。


 尿を出したのでまた椅子に腰かけると、二十代半ばぐらいの女性が診察室から出てきた。身なりのいい格好をしていて、お腹には赤ちゃんがいるらしかった。
 僕が悩まされているようなことには、一生悩むことのなさそうな人だと僕は思った。なんでこんなにも差があるのだろう。迷惑だとわかっていても、つきまとって彼女のような人に話を聞いてもらいたい気がするのはなぜなのだろう。ずっと僕はその女性のことを見てしまう。


 その女性は、こちらの視線には気づかず(そもそも僕のことなど眼中にないのだ)、会計を済ませると病院から出て行った。彼女が病院から出て行くと、これまで以上にその場が静かになったような気がした。
 僕は、いまこの場にいる女性ひとりひとりのことをまた見てしまった。みんなセックスしてますね、と突然声に出して言いたいような気がした。

 

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