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薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

ワカンナイ

日記

政治や経済や社会やについて人が語っているのを、読んだり聞いたりしていながらも(つまりそれなりに関心はあるのだが)、それっていったいどこからの情報なの、あなたって何なの、何様なの、何かの中心人物なの、と思いながら(でも何も言わずに黙って)、他人の話を読んだり聞いたりしているのが、いつの頃からか普通の状態になっている。

テレビでも、活字でも、ネットでも、自分は「正しい」ことを言っている、という態度の人が、何だか基本そういう態度の人ばかりが、増えているような気がする。

今ものを言っている自分は、社会や物事を正確に認識していて(本なんかも出していて)、つまりオレやアタシは優秀な(センスがいい、世慣れた、粋な、異性にモテル、ジェンダー意識が高いなどバリエーション豊富)人間で、だから優秀な自分の言っているように人はするべきで、改めるべきで、つまりオレ(アタシ)の話を聞けと、何かそう言っているだけじゃないの、と思えるような(エライ)人の話を、でも(エラクない)わたしは何も言わずに黙って、ただ読んだり聞いたりしているのが、普通の状態となっている。

でも内心、そういう「エライ」人たちは、言っている内容とかの違いは別として、何かもうその語り方とか態度とかは、判で押したように同じような感じがするので、何か最近では、そこが全然気になってしまって(文体ってやつ?)、そこに何かその人間の本性までが出ているような気までしてきて、そしてその感じる本性が(あるいは文体が)、いちばん何かなあ、というものな気がするので、だから何か素直に話を聞いていられないような気になり、自然とこころに防壁を作りながら聞いてしまい、最終的にはアレ、この人ってなに言ってたっけ、となることも多々 あるようになっているのだった。

別にわたしだけではなく、だいたい世の中に出て人と喋ったりしているときなどは、誰でもそういう 感じは大なり小なりあると思うのだけど、最近、そういうことを妙に強く感じ、ほとんど内容が頭に入ってこない、とまでなってしまっているのは、いったいどういうことなのだろうか。

そういえば昔から、たとえば学校の先生とか大学の教授とか、あるいは武道の師範代みたいな人の一部には、何か接しているとそういう臭いみたいなものを強く感じてしまって、それに対して表立って反抗したり、そういう人の面子を潰そうとかはしないのだけど、何かこの人の話は素直に聞いていられないな、という気持ちになることが多かったような気がして、最近ではなく昔からなのかな、という気もするけど、いわゆる反抗期とか思春期とかに、これも大なり小なり誰でも持つ感覚だとは思うのだが、いまある感じは少しそれとも違っているような気もするのだった。

 

上手くは言えないが、何か、たとえば儒教論語なんかで、子のたまわくなんて文体が生まれてくる思想が嫌い(孔子は好きなのだけど)というか、その物の伝達の仕方、考え方、現実に対する接し方が、人のあり方が嫌いというか。

たとえば儒教では、孔子様の言っていることは「正しい」となるのだろう。仏教ではお釈迦様の言ってることがそうだし、キリスト教ではイエス・キリストの言っ ていることがそうだし、武道や芸事や古典芸能だとその何々流のお師匠様が「正しい」し、心理学なら心理学は「正しい」し、社会学なら社会学は「正しい」みたいな。

もちろんそういうものを否定しているわけではないのだけど、何かその中にいる人の確固としたところが何だかというか、そこにいる一番弟子野郎というか、師範代野郎というか。

何かいつの間にか、何かが制度というかシステムみたいになってて、こう一番弟子野郎というか、師範代野郎が生まれて、でかい顔をしつつ、何かそのシステムの広報者になって、その教えを、その考え方を広めていくみたいな。


これからは、価値転換期というか、これから世の中はどうなっていくかわからない、みたいな状況でもあるからなのか、何かどこにもかしこにも、最近そんな扇動家や説教師がいっぱいいるというか。

で、 そういう扇動家や説教師さんというのは、なんか葛藤がないといいますか(葛藤がありつつ優秀な人もいるんでしょうが)。どうもね、その葛藤を人前で喋るときは横に置いてるのかもしれませんが、置いてるにも置き方があるわけで、何か葛藤がなさそうな人の方が流通しやすいというか声がでかいと言いますか。まあ、いっぱい呟かれたりフォローされたりブックマークされたりメディアに取り上げられたりしている人への嫉妬でしょうけど、それがビジネス?マーケット感覚なんでしょうけど、それっていいんだろうか、そんなわかりやすいことなの、なんて、そういう人の話を聞いたり、文章読んだりしているそばから、思ってしまって、もともとそんな人間だからか、まあここに書いている文章も延々長い長い文章になっているわけですが、で、何が言いたいの、三行にまとめろよ、みたいなね。

なんというか日本語が、確固としてて、簡潔な方が、何か最近うそ臭いものを感じるんですよ、なんかね。

もちろん人から注目を浴びる、発言権を何だか与えられているような感じになっている人というのは、何かの業界で成功していたり、専門家だったり、あるいは大学の教授だったりしていてなので、どうしてもそうなっちゃう、そういう話法? 文法? 文体?になっちゃうのかもしれませんが、結局、その他人に向かって堂々と物を言える自信や自尊心の源は、言ってしまえばある種の「システム」によっているのではないの、などと思ってしまうようになっていて、自分が文章書いたり、喋ったり出来ているその、寄りかかっている「システム」に対する疑いの無さの方が気になってしまうというか。


そういう人は、無意識の内に「システム」のロビイストになってて、そのシステムの物の考え方に、「正しさ」 に染まるように勧誘してきているように感じるというか、ものを考えるな、われわれに従え、われわれの流儀が「正しい」、と言われているみたいな、でも、そういう人に限って、自由になろうとか、自分で考えようとかいいがちなような気もなぜかして、余計に話を聞いててこんがらかるといいますか。言ってることと言い方の乖離が激しいと言うか、見えないインクで、「obey」と書いてあるんでしょうか。でもひとりの社会人として生きているので、判断も下さないといけないといいますか。

で、ここまで書いてきて何かわかったというか、わかんないというか。本当は、そのシステムと人の(あなた自身の)葛藤みたいなものが、読みたかったり聞きたかったり、自分はするのだろうか、どうなのかな、よくワカンナイな、という思う今日この頃です。でも、人が求めているもの欲しいものを提供するのが、正しいことでしょうしね。

 

2012.02.11 Saturday

 

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