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薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

ぼくは勉強ができない

日記 下流の話

わたしの育った町である広島というのは、今でも中四国で唯一人口減少のない都市で、それなりに栄えており、「広島カープ」や「サンフレッチェ広島」という、野球チームやサッカーチームがある都市でもあって、いわゆる福岡や仙台や札幌などと同じような、その地方ではいちばん栄えた中核となっている都市です。おそらく福岡や札幌などもそうであるように、その都市独自の色というものもあって、 グローバル的に見れば、「マツダ」という世界的な自動車会社の城下町で、主にその自動車産業を中心として栄えているという町でもあります。

関東圏や関西圏や、あるいは名古屋圏にいる人にどこまで伝わるかはわかりませんが、こういう地方都市で生まれると、これまではそこそこ普通に、そこそこ幸せに生きてこられたのです。本人がある程度要領のいい、器用な人間だった場合。

 

そういう人は、公立中学までは、学校の授業さえ聞いていれば、偏差値60行くかどうかぐらいの成績が自然と取れちゃったりなんかするので、別に勉強というのがそんなに苦ではありません。もともと何か要領がいいところがあるというか、わたしはこの言葉が嫌いですが、いわゆる「地頭」がいいとか言われるタイプというか。

こういうタイプの人も、広島のような地方都市ではななく、東京、京都、大阪近辺に住んでいたり、あるいはそこで一生を終えられないような、あまり発展していない都市に住んでいたりすると、中学、高校ぐらいから電車で通うような進学校に行かされて、東大、京大、帝大、早稲田慶応などに行け、せめて同志社立命、明治法政ぐらいには行け、それ以下のランクなどありえない、などと言われてどんどんと勉強させられたりして辛かったりもするんでしょうが、広島みたいな地方の中核都市は、ある意味そこだけで成り立っているというか、不満を感じなければ別に外にでる必要もない場所だとも言えるので、高望みさえしなければ、受験的な勉強にはそんなにさらされないで学生生活をおくれる場所でもあったりするのです。

地元には、偏差値50台後半の、その地方では由緒と伝統があるとされていて、親や祖父母にもウケのいい公立の普通科高校があり、別に一生懸命ガリ勉して、一流大学などに行くつもりも、親に行かすつもりもなければ、そういう人は苦もなくその公立の普通科高校の試験に合格し、その地方では人並み以上と考えられている、高校生活を始めることになります。

そしてその高校でも、別に熱心に勉強するわけでもなく、腰掛OLみたいな感じで、とりあえず誰からも白い目で見られない程度、傍目にははっちゃけ過ぎないように高校生活をおくり、最後の一年か夏以降に身を入れて勉強をして、地元の偏差値60前後の(少子化の今は55ぐらい?)、広島女子大(今はない)とか、広島市立、広島県立などの、公立大に入るか、偏差値50台後半(今では偏差値50程度らしい)の、わたしの地元では 「広島修道大学」という、東京でいえば学力は日大、駒沢、専修に届くかどうかぐらいですが、なんか広島内ではイメージ的に、いちばん偏差値の高い私立大なので、青山学院とか立教大学ぐらいのイメージ(あくまでイメージ)の大学に入るのがお決まりのコースで、四年通って卒業すると、何の疑問も持たずそこそこの地元中小企業に就職したりして、そこそこ幸せに、人と同じような幸せを信じて生きていけるような感じの人生モードであったりなんかもしたのです。

高校生のときぐらいには、セックスの経験も済ませ、社会人になるまでに数人の異性とも付き合い、そこそこの性生活を送る。高校生のときから、クラスメートたちと飲み会をしたり、勉強よりもバンド活動や、クラブ活動や、放課後や休日の遊びなどの方に身を入れているような毎日。

いい大学、いい会社とかに行ってどうするの?行きたいわけじゃあないんでしょ、人生そこそこ楽しめればいいじゃん。セックスして、オシャレして、スポーツとか音楽とかやったりして、っていう感じの空気がなんとなく漂っている。

わたしの育った広島だと、そういうそこそこの人が通う普通科高校はだいたい町の中心部にあるので、放課後は友達と映画を観たりカラオケに行ったり、古着屋や雑貨屋を回ったりなどもして楽しく過ごす。そうやって、「普通」に生きればいいじゃない、という、その「普通」に何の疑問も持たず、これといった苦労もせず、その「普通」の社会に疑問を持たずに育って、大学を出て、九割以上が会社員になる人。

彼らが通っていた普通科高校には、見るからに不良、というものなどおらず、いわゆる頭が悪いというタイプも少ない。結構、何でも器用にこなすタイプがそこそこいる。

逆に広島みたいな土地では、中学や高校から進学校に行っている人間の方が、地頭は悪かったりする。 親とかの抑圧で、常に頑張っており、学生時代はガリ勉で、スマートではなくおしゃれでもなく、センスがなくてイケてなくて、異性にもモテないことをクラスメートにはバカにされていて、案外いじめられたりなんかしている。クラス内カーストは低い。学校の勉強はできるかもしれないけど、後が全部ダメというタイプ。いい大学に入ったとしても、友達が出来ず、便所でひとり飯を食べてたりするようなタイプはバカにされている。

ある意味そういう空気のもとに育ったに人とっては、就職なんてものも、学生時代の勉強の延長のような、何か体面を保つためのものであったりして、 そこそこ器用に楽しく普通に生きていくために、まあしとかないといけないものか、という感じであって、面接でもそんな感じで器用に嘘をつくというか、自分はこれをしたいんだ、こう生きて、こういう仕事に人生をささげていくんだという意識(別にそういう意識などあえて持つ必要もありませんが)など心の底からはないので、そりゃあやっぱりなんかそういう感じのものになったりする。

就職の面接のときに、これまでどういうことをやって(頑張って?)こられたのですか、なんてことを訊かれるのかもしれませんが、いったい何を頑張って来たのでしょう。あえていえば人並み以上に普通であることを頑張ってきたということでしょうか。それからずれないように、はみださないように。それでいて、クラスのカーストの上位ではいるように。

勉強はできない(しないけど)他の事は何でも人並みかそれ以上にはスマートにできるようになってきた、ということか。

でも、いつの頃からでしょうか、ある意味こういう社会になってくると、それまでそういった感じで生きてきた(生きてこられた、これからも生きていけてたかもしれない)人たちの何割かが、貧乏くじを引いていくようになるのでは、と思うんですよね。

実際、今では上で名前をあげた広島の大学の人たちも、就職活動などでは苦労するでしょうし(国立の広島大学ぐらいでも苦労するかも)、もはや社会的な状況は大きく変化している。でも、何かそういう場所で育ってきた人間がいつのまにか身体的に身につけている、身につけてしまう、「普通」感覚みたいなものが、どこか変わってはいないというか。

いままで何の疑問を感じなかった自分、「普通」と感じていた自分が、実は「普通」ではなく、自分たちがある意味中心層となって適応していた社会も実は「普通」ではなかった。

それはたまたまバブルや95年や、9.11までかはわかりませんが、そこまでぐらいの「普通」であっただけで。

あるいはわたしみたいな下流に落ちたものとは違って、多くの人にとっては3.11 までも続いていたし、3.11以後も別に変わらず続いているのかもしれませんが。

しかし、今の世の中では、なんかで会社を辞めたりフリーターになったりすると、もうその当たり前だと思っていた「普通」がなくなってしまう。そこそこの大学を卒業して会社員になった学生も、三割ぐらいがドロップアウトしたりする。

ドロップアウトしても、東京、大阪、京都ぐらいならまだそれなりの仕事があるのかもしれませんし、フリーターでも、東京や大阪や京都なら、三十代になるくらいまでは危機感なんか感じないし、自分を他人の目でも見ないで済んで、自分たちはそこそこ幸せで普通だ、と思えるのかもしれませんが。

でも、それまでそういう風に生きてきた人が、いわゆる下流なんて言われる立場になって、ブラックといわれる布団や教材の押し売りとか、タクシー運転手や鉄工所(そういえばマンガ『とろける鉄工所』は広島市が舞台)に勤めたりするのは抵抗があるのではないでしょうか。あるいは派遣社員になる。なんとかしようと職安に行っても、そのような職の求人か、募集は介護介護介護介護、だったりする。

結婚もなかなか出来なくなって、家も車も持てない、自分の親たちがしていた当たり前のライフスタイルが出来なくなる。 東京や大阪や京都なら、それでもそこそこ幸せなのかもしれないですが。

派遣社員フリーターの人たちの中には、あそこの県営団地出身は、と言われるような貧しい人や、高卒中卒とかで這い上がって来た人もいるのですが、案外こういう落ちてきた人がいた、というのが、わたしが広島で派遣やフリーターをして働いていたときの実感です。

で、こういう人の鬱屈といいますか、同じ派遣社員とオレは違うと思っていたり、でも、何か「普通」に生きてきたことの弊害というか、他者に対する想像力が希薄で、自分たちが社会の中心とどこか思ってもいて、平気で団地とかの出身者や高卒を見下している。


でも、じゃあ本人に何かあるのかといえば、何もなく、「普通」を人よりもスマートにこなすことしか上手くない。

自分はそこそこちゃんとやってきたはずなのに、何で認められないんだ、何でこんな立場なんだ、みたいな感じで、ずっと職場や休憩時間では、愚痴や陰口ばかり言っていて、でも普通であること以外に何もしたいことがなく、何も言うことがなく、からっぽという感じ。

批判はしないけど、一緒にいるとうんざりする。でも、職場にはそんな人しか、あるいは団地とかの出身で、コンプレックスがあって、攻撃的というか、歪んだ、損なわれた人しかいない。

たとえば本なんか、案外そんな人のリアルな何かに応えている、あるいは書いてあるようなものは、思ったよりも少ないような気がするんですよね。それは下流とか貧困とかワーキングプアみたいなかたちでは取り上げられてはいるのですけど。

本というのは、やっぱり早稲田や慶応や、東大京大帝大の人が読むようなものなんでしょうか。せいぜいマーチとかぐらいを卒業した人が読むものでしょうか。そういえば、日本の企業も、そういう人たちしか就活で実質エントリーさせないので、そういう人たちが社会人で、それ以下は社会人では(本の読者)ではないということなんでしょうか。


あるいは上昇志向があって、自分は根拠なく成功してもいい立場であると思っている人間が、ライフハックとか自己啓発とかに関して読んだりするものなんでしょうか。居場所がない人間が、馬鹿みたいに幼稚なポジティブなこといって、似たもの同士で慰めあったり、つながりあったりするもの?

あるいは金融だとかネットだとか、これからは東大とか京大ではなくて、日本を脱出して海外の一流大学に行くべきだと言う人たちのような。なんかあまりにも(自分を棚に上げると)薄っぺらいものが多い気がしますが。

実際今ではガリ勉して日本の一流大学に入っても、勉強以外の能力もなければひとり便所飯でひきこもりの道にというふうになってしまうかもしれませんし、企業の求める能力と、一流大学まで行って身につく能力とのマッチングが上手く行ってないので、いい大学に行っている筈なのに就職できないなんて人もかなりいるらしいですからね。

そういう世の中で、でも本来自分は成功してしかるべきだ、と思っている人たちのメディアといいますか。

少数の、自分は違う、と思っている、思いたい人たちのものみたいなね。

でも、わたしが広島で感じていた、東京に出てきてからも強く感じる、何か上で長々と書いてきた、ある種多数派の人たちの、そういう声にならない声なき声は、どうなってんのかな、という感じもします。

本に出てくる人たちも、フリーターとかだったりしても、何かカッコイイ人というか、雑誌のシェアハウスの特集記事なんかでも、何か自分たちはセンスがよくてクリエィティブな人間たちで、自分たちはつまらない日本社会の枠組みにはおさまらなくてみんなで楽しくやってます、みたいなのですよね。


ある種悪いけど、「普通」の感覚からすれば、どうなの?みたいな。まあその「普通」の感覚をそこに出てくる人、そういう世界を作りたがる人は嫌悪してるんでしょうけど。

でも、下北沢や秋葉原とかにいると、そういうことについて考えているのが、何かバカにされているような気も勝手にしてきて。

何か下北やアキバの人は、そういう「普通」の人たちとは関係なくそこそこ幸せにやってますよ、みたいなね。僕たちはそこそこ幸せなんですけどね、みたいな。そういうのも、何なんだろうと思います。

いや、アキバも下北もいいところで、そういうところやものも大事だったりするんですけどね。わたしも好きですよ。でも、その充足してて、パンがなければケーキを食べればいいじゃない、みたいな感じは何なのとか思うんですよ。そのくせ津波で人が死んだりしたら、ボランティアに行ったりするんでしょ、西に、海外に逃げるんでしょ、そういうところの人たちは。アキバはともかく下北は。いやアキバや下北の人じゃないかもしれないですけど。「普通」に生きてない人たちは。

ネットも何かね、下北なら下北、アキバならアキバの主張や表現だけあって、あるいはライフハックや自分でモノを考えて優秀になろう、なんてものだけあって、そういうものの絡み合いみたいなのが、他人と他人の関係みたいなもの、その底にあるリアルなもの、その混沌そのものがないといいますかね。お前の意見や主張だけ垂れ流して、それで似たもの同士にイイネされて、意見や主張しかないから、別の意見や主張に叩かれたり炎上したりで、実は持ちつ持たれつで、ウホPVがみたいな、釣れた釣れたみたいな。

で、みんなそんなにマグロじゃなくて、わたしが感じてるこんな低レベルなことはみんな言うまでもなく実感してて、そういうことを感じている人の方が多数派なんだけど、その人たちは声を出さない人たちで、どこか諦めているというかね。それでも生きてくしかないじゃないかみたいな。でも、その感じはほとんど書かれていない、なんなんでしょうね。イヤ、勉強不足なだけでいっぱい書かれてるのかもしれませんけど、何でしょうかね。本当の日本の話がしたいよ、本当の「普通」の話が、本当の下流の話がしたい。

なんかね、「普通」でなくなったらどう生きていくのかも、もともと「普通」じゃない人がどうあえて「普通」に生きていくのかも、本来なら「普通」という枠組みにおさまっている立場の人間が、じゃあ自分でどういうモラルを持って生きていくのかも、全然取り上げられても語られてもいないというかね。枠組みだけあってからっぽじゃないかと。あとは幼稚な理想論だけじゃないかと。いや、わたしがそうだ、ってことなんでしょうけど。

「普通」よりも「自由」であることや、「優秀」であることばかり語られてるといいますかね。結局それってね、オレだけよけりゃそれでいい、アタシだけ素敵ならそれでいいってことでね。そりゃあね、世界的な、大きな社会の流れのなかでは仕方がないのかもしれませんけどね。かといって、薄ら寒い、中身も決意もない 「絆」なんてものを言ってもしょうがないと思いますけどね。絆なんてあるの、ないのにある振りしてるだけじゃないの。いや、わたしがそうだ、ってことなんでしょうけどね。

 

2012.01.19 Thursday