薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

自分はどこに立てばいいのだろう。

夜中、吉野家で牛丼を食べた。
わたしにとっては久々の贅沢。

店に客はわたし一人しかいなかった。
注文した牛丼が運ばれて来たときに、店に、三人の女子高生が入ってきた。
一人は私服で、二人は制服だった。
こういう、二十四時間営業の店しかもう開いてない時間に、女の子三人だけで出歩いてて危なくないか、と思いつつ、わたしはセルフサービスの紅しょうがを、カウンターに置いてある箱から自分の丼の中に取って入れていた。

家に居たくはなかったりする年頃かな、と思いつつ、紅しょうがを取り終わって、牛丼に箸をつけようとしたのだが、女子高生三人は店に入って来たときからずっと大きな声で喋っているので、別段さほど関心もなかったのに、何だか話の内容が耳に入ってきて、話のつづきが気になり、そのまま牛丼をひとり食べはじめても、わたしは頭の隅で三人の話のつづきを聞いている、という感じになっていた。

女子高生三人の内二人は、二日家に帰ってなく。風呂にも入っていないらしい。
牛丼はいちばん安い並盛を、三人で一つ頼んだ。

こういう立ち食いに近い店で、それはいいのだろうか。
席についた限りは、三人とも何か頼まないといけないんじゃないのか、と思っていたが、どうやらそうであるのかもしれないが、女子高生たちの喋り方から、あまり物分りの良さそうなタイプではないのが、当の女子高生たち以外にはわかるので、店員もそういうタイプにいちいち説明するのがめんどくさいみたいで、

言おうかな、ああ、うーん、まあ、夜中で混んでるわけじゃないからもういいや、という感じで、そのまま注文を取って厨房に入っていった。そういう感じが注文を取るときに店員にあったのも、女子高生三人には分ってはいないようだった。

店員が厨房の方に行った後も、三人は相変わらず大きな声で話しをしている。
まるで同じ店内にあと一人いる、しかも先にいた客であるわたしは、存在してはいないかのような態度である。
まるで存在感のないおやじではあるが、ちょっとは気を使って欲しいような気も少しする。

自分の半径一メートルぐらいにしか気が行かない年頃かもしれないが、もうちょっと引いて見れて、周りに気が行く振りぐらいはできる子も、高校生になればいそうだが、三人はそういう振りぐらいもできる子たちではないようだった。

そんなふうに思いながら、ふと、女子高生といえば性欲の対象であったはずなのに、エロイことを一つも考えずに、いつの間にか保護者目線で女子高生を見ていろいろ思っている自分に気づいて、ああ、オレはもう本当のおっさんになったんだな、とわたしは実感してしまった。

三人の女子高生の内の一人が席からおもむろに立ったので、何だと思ったら、コードと携帯を手に持っていて、店の壁にあったコンセントにコードのプラグを挿し込み、勝手に携帯を充電しはじめた。それはどろぼうではないだろうか。

ちょうど注文された牛丼を持ってきた店員も、さすがにそれはやめてくれないか、と言ったのだが、女子高生たちは何かいけないのかわからないようだった。
だが、とりあえず店員に注意されたのでやめはした。何で充電しちゃあいけないの、携帯の電池切れそうなのに、電話できなくなるよ、と言っている。

 

いわゆる、下流といわれる層の人たちの日常の風景かもしれないが、わたしはそういうことを書いたりする仕事をしているからだろうか、彼女たちはいったい将来どうなるのだろうかな、と思ったりする。このまま行くと、他人のわたしがとやかく言うことではないが、あまりいい将来ではない可能性が高いと思うのだが (いい将来とは何かが難しいのだけど)、どうなのだろう。

だが、どこかその三人の女子高生たちもそれに気づいているような気がするのは、 こんな夜中にあてどなく時間を持て余すように、寂れた明かりもない下町をさまよっているところで、三人で話すときも、いかにもそういう女子高生らしい共通した話し方をしているのだけど、どこか、あえて三人ともそう喋ってる作為臭さも感じて、将来の不安やあてどなさから、わたしたちは三人似た者どうしだよね、と確認しあうことで、それを見ないようにしている感じもするのだった。

彼女たちを他人だ、自分とは係わりのない人間たちだ、と思えればいいのだが、わたしも元は、あるいは今も、下流の人間だ。
学生時代も世の中に出てからも、彼女たちのような人が周りにいたし、自分もそうであったこともあるし、このような二十四時間営業の、主に下流の階層にいる人向けの 飲食店で働いていた。現に今も稼げなくて牛丼を食べている。しかも、わたしにとって牛丼は、いまだに贅沢な食事の方なのだった。

所謂Fランクと揶揄されるわたしが入った大学は、講義は私語がうるさくて教授が何を言っているのか聞こえず、黙っている人間もみな携帯を弄ったりしているようなところで、田舎で、みんなバイトをして車やバイクを買い、それでドライブなどに行くぐらいしか楽しみがなく、底辺飲食店のバイトにはまって、大学を落第するものも多い。仲間で集まってすることといえば、誰かの部屋での麻雀か、国道沿いにあるパチンコ屋で、時間を潰すように羽物やフィーバー台を打つこと。

そんな中で、わたしはひとり本を読んでいた。
そういうところや人たちを別に見下しているわけでもないし、仲のいい友達もいる。
でも、そういう場所からは、どこか抜け出したいとも思っていた。

何か満たされない物を感じたからだ。

幸運にも、本を読んでたお陰で抜け出せたところもあるのかもしれないが、そういう自分の体験などを書く仕事をしていて、何か最近立ち位置に迷うところがある。

今仕事をしている人たちは、やっぱりどこか上の層の人たちだな、と思う。
下流ではない人たちは、差別とまでは行かないが、当然下流と言われる人たちを下に見ている感じがする。
自分たちはああいう人間ではない、努力不足で、危機意識の足りないものたちだ、と内心は思っているのがわかる。もちろんわたしも、どこかそう思っているのだろう。人は口では、マイノリティや下流の人たちに理解がある、そういう人たちの味方だ、などと言っていても、態度や目つきを見れば、自分とはやはり関係のない存在だ、と思っているのがわかる。

何か、今ウケている下流的な物語は、どんなに下流の人たちを描いていても、そういう下流ではない層の人たちが、もういろんなとこにボロが出始めた社会で、真面目にやってても見返りが少なそうな社会で、それでも社会というシステムに依存して(もちろん誰もが依存せざる得ないが)コミットメント?して、毎日生きている自分たちを肯定し、慰める為に、必要とされているのかな、という気がする。こういう人たちより自分はマシだ、と思うために。

そういう物語は、どんなに過激な悪が描かれようと、血も涙もない世界が描かれようと、ある種道徳的な物語なのだ。社会というシステムを補強するための物語である。社会人として努力不足の、このようなダメな人間になるなと忠告し、立派な社会人であることを肯定し、社会の言うとおり真面目に生きるべきだとメッセージを暗に送る。見返りの少ない社会だからこそ、そのような物語がより必要なのだろう。

 

わたしも商業作家なので(そのつもりなので)商品を作らなければならない。ビール会社の人間が、アルコールが人体に与える負の影響とかを考えていてはいけないように、そんなことを考えるべきではないのかもしれない。もちろんアルコールには精神的にいい影響もあるのだが。

 

しかし、社会の側からだけものを書いていてもいいのだろうか、とささやく自分がいる。わたしは下流の側の人間だったのだ。昔の自分をなかったことにし、よくいる不良が、昔の自分は悪かったけど今はまじめに働いてます、有名大学に入りました、弁護士です、議員です、社長です、いい親です、素敵な店を開きました、と、そういう物語を書くべきなのだろうか(そういう本しか出したくない、と言われたこともある)。いや、どんなに下流の人に同情的に書かれた物語であったとしても、それはやはり社会を補強する為の物語ではないだろうか。いや、仕事とは社会の一員としてするためのもので、それは当然で、お前は何をいらないことをウジウジ考えているのか、ということだろうか。

仕事だから、別に仲良しこよしをする必要もないのだが、たぶん仕事以外で、自分は仕事をしている人たちに、たとえば飲み会に誘われたりはしないだろうな、という気がする。

たぶんわたし以外の人たちで、同じ層の人たちで、同じ業界の人で飲みに行ったりするんだろうな、という気がするのだ。
そこそこ裕福な家庭で育って、エスカレーターの私立大学を卒業したような感じの人たち。わたしは小説やサブカルという接点や共通点があるが、友達になりましょう、仲良くしましょう、と言っても、わたしとは友達になってくれないし、仲良くしてもくれない。そのつもりが少しあったとしても、やはり育ち、階層が違うということなのだろうか、わたしといると、あるいはお互いにストレスがあるのだ、気を使ってしまうのだ。かといって、わたしは気を使わないでいられる世界でもう生きていくこともできない。

何かわたしが若いときと違って、はっきりと階層みたいなものが出てきた感じがするが気のせいだろうか。あるいは見えないようになっていたものがはっきりと見えるようになっただけだろうか。

でも、こういうことを言えば、そう、おれ達は搾取されてるんだよ、エイエイオー、とか言い出す人がいる、わたしはそういうことを言いたいわけではない。それでいいのだろうか。それもただのガス抜きで、やはり社会を補強する商品ではないか。商品だとわかってやっているのだろう。


どこにいっても、どこか部外者、という感じがしたし、物書きになってからも、どこか階層が自分は違って、部外者という感じがする。人は、あなたは考えすぎたとも言う。

どこに行っても身内はいない感じ。
この寂しさを身内に抱えながら、働いて生活していくことが、社会人だ、ということなのだろうか。

人を他人事としても描けず、かといって自分たちを肯定するようにも、安易に癒すようにも描けない。涙を流すほど感動的に、あるいは悲劇的に、あるいはこんなクズみたいにならないようにと描けばいいんだろうか。

人が喜ぶものはそういうものだろうか。
他にどんな立ち位置があるだろう。

 

2010.12.02 Thursday

 

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