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薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

東京日記(21)

仕事をしていた(書いている原稿がボツになるとお金が支払われないので、世の中の普通の意味においては仕事をしている、と言えるのかは微妙だが)。

わたしとしては毎日まじめに仕事をしているつもりなのだが、お金を生み出していないので、遊んでいる、好き勝手に日々を過ごしている、と人からは思われる可能性もあるのだ。

ただただ自分のタメだけに、好き勝手にしているつもりはないが、とにかくお金を稼がないと、人はそれを仕事としては認めてくれない。プロだとは見なされない。

資格を取れば、試験に合格すれば、プロと見なされる仕事もある。
だが、わたしの仕事には、資格も試験もない。将来的には、よりそうなっていくだろう。

文学新人賞みたいなものもあるが、極論的にはこの仕事は、自分で名乗った瞬間から、その職業につくことはできる。それを聞いて、内心人が笑うか笑わないかは別として。つくことはできる。日本では幸福なことに、ほとんど誰だって言葉を書いたり喋ったりできるのだ。
電子書籍の流れで、誰でも本を(本という呼称でいいのか?)出すことは出来るようになるだろう。

スポーツなどもそうで、誰だってやることはできる。

しかしそこに、プロとアマの区別がある。

わたしはふと、ある人が、プロ野球選手であるということと、野球がむちゃくちゃ上手いおっさんだ、ということを隔てているものはなんなのだろう、ということを考えてしまった。

確かに、歴史に名を残すような名選手や、現役のメジャーリーガーなら、もう誰が見てもプロ選手、なのかもしれないが、二軍などにいる選手と、実業団や高校球児のトップ選手(ドラフト1位クラス)を比べた場合、実際にプロとして飯を食っている選手よりも、彼らの方が実力が上の場合も多いのではないか。

例えば野茂英雄はいつから野茂英雄だったのだろう。

ドラフトで1位指名されて、契約金を貰ってからが、プロ野球選手、野茂英雄なのだろうか。能力で言えば、プロ選手になるずっと前から、並みのプロ選手を凌駕していた筈である。今現在では、一年目の活躍から、みんなそれを知っている。

 

しかし、現在の野球の仕組みではありえないことだろうが、もし、プロのスカウトから注目されなければ、あの大投手野茂英雄は、ただ、へんなピッチングホームで球を投げる、むちゃくちゃ野球の上手いただの兄ちゃんだったわけで、ろくに金も稼げもせず盛りも過ぎて、世に埋もれて行ったのだ。

さらに言えば、野球にはある一定の、共通のルールと規定による試合と、グランドなどの球技場があり、とても立派な何万人も収容するスタジアムがあり、そこで行われる試合で結果を出せば、たとえ人気があろうと無かろうと、実力はあって、プロになれる、と証明されるわけだ。

この人はこういういい結果を残しましたよ、とテレビやラジオや新聞が伝えてくれるし、ある一定の、ほとんど仕様の変更されないルールと、競技場で行われているので、伝える側に偏向の意思が多少あっても、結果そのものは変わらないのだ(本当には小学校のリトルリーグ程度しか能力が無いのに、一流のプロと客をだまして、四番やエースにまでしたりして、 だませる限りは、ある層に人気があるなら、選手としてやらせる、ということはない)。

またさらに言えば、人類の中で、日本人とかアメリカ人とかは、ボールをバットで上手くひっぱたくとか、クソ速い球を投げるということを非常に高く評価していて、そういう奴等が集まってやる野球というスポーツを見物したりすることに喜びを感じる変態が多くて、金が集まってくるので、たかだがバットでボールをひっぱたくのが上手かったりするだけのおっさんは、天才だとか言われて、おお金を貰うのである。

日本人やアメリカ人がそんなに野球を好む変態でなければ、歴史として、そんな変態が野球の上手いおっさんやその試合を見物しつづけることがつづいていなければ、やっぱり億千万の金を稼いでる野球の上手いおっさんでありプロ選手は、ただの野球の上手いおっさんで終わっていたわけである。

長嶋茂雄も、へんな日本語を使う、野球の上手い、あごひげの剃り跡が濃い、へんなおっさんである。

ミスターなどと言われて尊敬もされず、お金も稼げず、千葉の片隅にいる何かへんでユニークで、でも野球が上手い草野球のへんなおっさんミスター長嶋。

そういう可能性も、野球がもしマイナースポーツだったら、充分に考えられることである。世の中というのは、ある一定値を越えたものしか認めない、存在しない、としているところであるのだから。

 

オリンピックに出られるほどの能力があったとしても、そのスポーツがマイナーなものであれば、野球と違い、それでは食うこともできず、それをつづけていくことも難しく、たとえオリンピックに出たとしても、もし話題になるぐらいのメダルを獲得できなければ(4位や2位なら)、おそらく世の中の人にも知られず、世界の4位や2位でさえ、まるでその人がそれまで費やしてきた時間や情熱や、蓄積されたものは、世の中という周囲からは無価値なもの、存在しないもの、と見なされ、何々という競技してたの、へーすごいんですね、でもあなたそんな歳なのにまだアルバイトなんですよね、平社員なんでしょ、年収200万のこんな無価値な人間と結婚するなんて無いな、話しかけないでくれます、自分に関心を持ってもらおうとしないでくれます、そばにいられるだけでイライラします、気持ち悪いから、というのが世の中であり、それが世の中の人間である。

 

世の中の人間は、知ったふうな口をきく。自分が日ごろどういう態度をとっているかなどと考えてみることもせず、知ったふうなことをいう口が、努力は必ず報われます、見てくれている人が必ずいます、若い頃の失敗など取り返しがつきます、などと、こんな子供のいうようなことは口にしなくとも、世知にだけは長けた人間が、知ったふうな口をきき、自分の人生で、知ったふうなこと以外は何も知らない人間が、それにうなずき、ときには高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ、などという作家の言葉に感動して、まるで自分もその作家と同じ覚悟と態度を持つ人間であるかのように、その気持ちをブログにつづている。それが世の中の人間である。

 

こういうことをわたしは仕事にするまでは知らなかった。知っていたつもりで、本当に実感することはなかった。それが仕事をするということだと、知ったふうな口をきく人は言うだろうか。

実際にわたしに面と向かって言う。それが世の中だからだろう、仕事だからだろう。そんなときわたしは名前を持った人と話をしている感じがせず、大きな空気の塊か、あるいは世の中という何か大きなわからないものと向き合わされているような感じがする。それが社会に出て働くということだろうか。たとえ力を身につけたとしても、それが社会や世の中で利用される価値や場所を見つけられなければ、存在してないも同じで、その方法を見つけるということが、働くということだろうか。自分もまた世の中の人間のひとりとして、それを自分に言い聞かせなければならないだろうか。

 

セックスがしたくなる。こんなとき人はセックスがしたくなるんだと思う。だから、自分の家を作り部屋を作り、セックスなんかしているんだと思う。それともそれは甘い妄想で、年収600万以上の男との世の中セックスで、家の中の隅々まで世の中なのだろうか。実際にセックスをする相手のいないわたしには、実感はなく、知ったふうなことしか言えず、沈黙するしかない。そしてこんなことを言う男には、女も気持ち悪いから近づかないでくれます、とセックスしない。

 

仕事をするまで、こんなこと知らなかった。

ライターになろうとか、小説修行とかの本にも、わたしが読んだ中では、こんなことはどこにも書いてなかった。書いていてほしかった。それこそ事前にいちばん知りたいことのような気がする。

 

文体も、論旨も、ぐちゃぐちゃで、まとまってもいない、物語というかたちで書けばよかったのかもしれない。

 

2010.04.08 Thursday

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