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薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

ハンサムスーツと苦虫女

友人に、薫さんは思いつきやひらめきだけで文章を書きすぎる、もっと構成とか展開とか論理的な考え方とかをちゃんと身につけるべきで、基本や王道をちゃんとマスターしないでどうするの、絶対に身につけるべきなのに、と言葉責めにあった。
それでとりあえず読んでみるといいよ、と言われたのが『わが闘争』なのであるが、わたしにいったい何になれと言うつもりなのか、ということは置いておくとしても、言っていることは本当にその通りだと思う。

大体、人気のあるものなんか、バカどもの読んだり観たりするものだと下に見てるんじゃない、と言われ、わたしはそんないけすかないヤツじゃないよ、と思ったのだが、確かに『世界の中心で愛を叫ぶ』も『東京タワー』も読んでないし、なんと『ノルウェーの森』も読んでなければ『ハリーポッター』も読んでいない。

『世界の中心で愛を叫ぶ』はテレビドラマでは観たが、そしてお見合いの席で熱く語ってお断りされたというトラウマ作品でもあるが、本の方は最初の一ページで到底読みきれなくなったし、『東京タワー』も、ドラマはちょっと観たのだが原作の方は二冊も買っているのにどちらも読まない内にどっかに消えてしまった。

職業として物書きを続けていくつもりなら、古典は当然として、やはりいま売れているものは読まないといけないとは思うのだが、多く売れた本というのは(それが特に一過性のものの場合)、この社会に多数派として生きる人達の、そのときどきの無意識の偏りのようなもの、本人達の気づかない歪みのようなものも、どこか体臭のように染み付いているもので、読もうとしたそばからその臭いにあてられもうイヤだ、と自分は思ってしまう作品もあるのだが(職業にした以上そんなものと自分とは全く無関係だ、と思っていたらいけない気もする)、売れる人というのは、無自覚的であれ自覚的であれ、そういうものを書けるというのは凄いことで、やっぱり自分の歪みや体臭みたいなものを、より多くの人にせめて暇つぶしぐらいの価値のあるものとして提供することで、いくばくかのお金を稼ごうとしているものであろうとするなら、やっぱりそれは読まなくちゃあならない。

ただ、社会生活においては、こいつやなヤツだなあとか思っても、全然スルーできるし、ああそうですか、と聞いた振りして全然聞かないとか、こういうやつはダメだなんて上から言う権利は自分にはないよな、などと、見ない振り感じない振りのスルーしまくり、それにそもそも、自分にもそういうところはある。

自分も時や場合や相手によっては、あるいはもし何か人生で追い詰められていたりしたら、自分がイヤだと思う態度や人間になっていることに気づき、そのとき自己嫌悪におちいるのだ。その繰り返しなのだ。

この人と違ってオレはそういう自分の卑小さを自覚しているのだ、なんてちょっとした優越感で自分を慰めてみたり(自分も他人から多々そう思われてスルーされているだろう)、実生活でとてつもなく不愉快な目にでも遭わない限りは、それが人間だよな、などと悟りきったいけ好かない坊主みたいな振りもできるというのに、何で本だとそれが出来ないのか。

それは取り合えず置いておくとしても、基本や王道はマスターしなければならない。実際にわたしはそれが全然技術として自分の中になくていま困っているのだ。

ただ、本だとわたしは好き嫌いが激しいし(しかも臭いからヤダというわがままさ)、よかったら嫉妬もするだろうし、素晴らしかったら死にたくもなるし、たいしたことのないものが実力があるものに見せかけられ、持ち上げられ宣伝されていたら、もう本当に世の中が嫌になるし、つまりそれを職業にしちゃった限りは、どんな人も無視はできない人になったみたいな、逃げちゃあいけないし、逃げられない。

たとえば偏差値でいえばこの人の文章は35だなと思っても、35なのに表舞台に出られて、宣伝されている理由があるわけで、それはその人の人脈とか社会的立場であるとか話題性であるとかが、つまり偏差値80ぐらいで二つ三つそろってるからで、職業にしたからには自分にないそこをどうするかを考えないわけにもいかず、職業にしてなければつまらないもので無視できたものが、無視できなくなってくる。

また素晴らしいものに出会えば自分には書けるかと比べてしまい、学歴や偏差値なんて本当に役に立たないと思うのは、たとえば国語の偏差値が80ぐらいあれば、自分は国語は優秀、書きさえすれば本ぐらい書けると勘違いしている人がいるかもしれないが、たかだか100点の受験テストで計れるものぐらいで、書けるほど甘くはない(わたしは知らないだけで甘いジャンルもあるのかもしれないが)、ということも、バカなわたしでさえわかってきた。

偏差値というものはなんの為にあるのだろう。だいたい極端な話、35から65に上げるなんて、ノウハウと環境と、努力さえすればどうにかなるもので(そのノウハウがないとか環境がない場合があるのだけど)、まだギリギリ努力でなんとかなる面もあるのだが、職業になったら、偏差値87と88と89がしのぎを削る世界で、その偏差値1か2の差が、偏差値35と65の差よりも大きく開いていて、努力などではつめられなかったりする。だから素晴らしいものに出会うと死にたくなる。

ましてや偏差値89あれば正解、というわけでもなく、偏差値50でも60でも、運や出会いに恵まれて、あるいは他で補って居場所を得て、自分の仕事ができれば、それで生きていけるという世界でもあって、しかしだということは運や出会いに見放される、という場合も大いにあり、でもこれはどの世界でも同じ、ということなのかもしれないが、ああもう考えたくない忘れたい。

だからちっちゃいわたしは取り合えずDVDを借りて別ジャンル、と言い訳できる映画を観ることにしたのだった。

近所のレンタルビデオ店に行った。いま世の中にウケているもので、日本人が作っているものに何があるだろうと邦画のコーナーに行った。

しかし、ここで青山真治とか黒沢清とか観たら、また、「人気のあるものなんか、バカどもの読んだり観たりするものだと下に見てるんじゃない」と言われる恐れもあるので、そういう、ちょっとオレ尖ってますよ、というようなモンじゃなく、皆さん観てくださいね、と言っているようなものを借りなければならないと思い、わたしは『ハンサムスーツ』と『百万円と苦虫女』を借りて帰ったのだった。

 

2010.03.26 Friday