薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

世の中に出る

下流やたとえばゲイとかのマイノリティの人が世の中に出るときに乗り越えなければならないのは、自分の利用価値を認めて近寄ってくる人たちが、自分に礼儀正しくはしていても、人として敬意を持ってはくれていない、見下して蔑んでいるとしても、それに必要以上に傷つかないタフさなのかもしれない。
自分はいちいちそれに傷ついて(自分の気づかないところで恨みの感情をためて)、失敗したり、自分を見失ったりしていた。

 

2015.08.25 Tuesday

 

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オレはまだ本気出してないだけ

自分は臆病者で、自分というものに絶望したら、生きていくことが出来なさそうなので、どこか手を抜いているところがあることにいまさらながら気づいた。何事かをする前から、失敗を想定して、「まだ本気出してないだけ」と言い訳ができるように、全力を尽くさない。挫折しきれる程努力しない。出来ないいまの自分を直視しない。もう自分はダメだ、全力を尽くしたのに、ここまでしか行けない、と自分に絶望するところまでは努力していなかった。(もちろんその時は、一生懸命やってたつもりだが、後から考えると逃げ道を残していたのだ。)自分を諦めきらずにつづけることも必要だとも聞くが、しかし振り返って、後悔する。全力でやりきっておけばよかったのに、と後悔する。全力でやり切りさえすれば、言い訳をしないで、もうダメだからと別の道に進める。自分ではどうにもならないこともたくさんあるが、それのせいにしなくなる(自分はそれでもするかもしれないが)。もう自分はここまでだ、と思うまでは。

久しぶりに、以前に、2008年か7年ぐらいに、自分が人生ではじめて書いた小説(小説とはいえないようなレベルのものだけど)を読んでみた。うわこりゃダメだ、という代物だったのだけど、これから自分が書こうとしている、書くべきなのは、こういうテーマのものではないか、とも思えて、それをかなり書き直してみた。書き直してみたけど、書き直せないところや、その頃、自分が憧れていた作家の影響や、ほとんどマネに近いところもあって、書き直しながら、憧れていた作家の出来の悪い幻の作品(もちろんレベルが違い過ぎるが)を書いているような錯覚もあり、その模写というか、それを書く中で、逆に自分が出てきたような気がした。

 

kaorubunko.hatenablog.com

差別と区別

差別と区別って、どのレベルなのだろう。僕がうつ病になって、その後一時職場復帰したとき、以前はそれなりに好意的な態度を取ってくれていた女性、なにかふたりの間にロマンチックなことでも起これば、そういうことになっても構わないかもしれない、ぐらいの態度を取っていてくれた女性が、もう僕など恋愛対象にはなり得ないと、あからまさに態度が変わっていた。うつ病になってしまった人間といい仲、つまり性的な関係になる可能性はないということだった。


もちろん僕がうつ病だったのはいまから十年以上も前だから、いまは少し世の中の認識も変わっているだろう。女性たちも、うつ病だからって、その人が恋愛対象にならないなんてことはないです、あくまでその人の人柄です、などと口では言うのかもしれない。


しかし、全く嘘偽りなく、心からそう思っていたとしても、実際に自分がその立場になると、どうなるかはわからない。実際自分がそういうときどうなるのか。自分が主義信条としてそう思っていたとしても、当事者としてそうなったとき、自分という人間はどうなるのか、自分は本当はどんなやつか、ということを考えてみない人も多い。


口では立派なことを言う、自分はそうだと思っている。
口でいうことと、当事者としては異なっていて当然だろうか。
ありうべき社会の理想と、自らの実人生でのことは、異なって当然です、ということだろうか。


そうでなくても、たとえばわたしは、同性愛者の人同士が結婚してもいい、誰を好きになろうと自由だ、と思ってはいるが、目の前で男同士がキスしたりセックスしたりしてるのを見たら、嫌悪感を憶えるだろう。男と女だとウホっと思うのに、キモチ悪いと思うだろう。キモチ悪いと思う自分はイケないのかもしれない、と思いながら。


正直ここらへんは、よくわからない。いろんなことを混同しているのかもしれない。自分もいろんなことに関しては口だけの人間だ。そうじゃないわけは絶対にない。


ただ、同じことを言っていても、口だけの人間と、何かに関して当事者になったことがある人間はやっぱり違う。もちろんどっちが良くてどちらかはダメというわけではない。ただやはり決定的に異なる。


当事者になったことがある人でも、当事者になったことがない人に対して、批判的な人や、被害者意識を持つ人もいる。ただ、自分は、普通の人間が、たまたま当事者になってしまっただけだ、と思いたい。


どこからが差別で、どこからが区別だろう。


人はわたしに自分のことを書けという、でも書こうとすると、そういうことは書くな、と言われる場合がある。でもそういうことを抜きに語れないことでもある。人が見ないようにしている箱に手を突っ込むな、と言われる。あなたなら、それが誰よりも上手く語れるはずだ、と言われたこともある。でも、どうすべきかよくわからない。書けば、自分もまた、エラそうなことを言っているだけになるかもしれない。この文章がそうであるように。

 

kaorubunko.hatenablog.com

 

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