薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

バーベキュー

本読んでたら、バーベキューの深層にある宗教的意味について書かれていて、肉を焼いて天に煙を上げて共に食うというある種の宗教的儀式みたいらしい。つまりバーベキューをする友だちがいないというのは、想像以上に友だちがいないというか、孤独ということなのだ。神に祝福されていないというか。つまりバーベキューをする側が、神に選ばれし側で、バーベキューをする友だちがいない側が、神に見捨てられし側、神に背いている側だ。神のご加護がない人生を生きる側だ。しかし神というのは非常にいけ好かない存在で、そんなバーベキューをする自分の側の人間たちも、川岸とかでやってたら、ときに鉄砲水で流したりという。
世の中で会う人会う人、バーベキューして、そこで肉焼いてわたしが差し出したら、この人は喜んで食べてくれるだろうかを想像して、自分の味方なのかを考えよう。いま想像してみたら誰もいなかった。
もうバーベキューをするのは無理なので、一緒に焚き火をしてくれる人、というのに切り替えていこう。これもおそらく本質的には宗教的意味があるのだろう。そういえば、震災の後で、孤独な人が一緒に焚き火をするとかいう村上春樹の小説があった。でも、一緒に焚き火をしていても、本当のそういう仲ではなく、そういう仲の振りをしているというのが、現実には、焚き火をしている奴らの中にも多々あるのではないか、と、そういうことを考えるから、やっている最中からもう一人の自分がそういうことを考えてるから、バーベキューどころか、焚き火をする人も集まらないのではないか、でもわたしはそういう奴なのだ。今その場を、そのささやかな幸せさえも、引いてみている自分がいるせいで心ゆくまでは楽しめない、というのは、どうしたらいいのだろう。
しかしよく考えてみると、バーベキューをする側が神に選ばれし側、となると、つまり薫の下流日記は、神に選ばれていないものの日記、ということなのだろうか。
となると、アウトドアグッズとかアウトドアメーカーとか、コールマンとかダッチオーブンとか、洒落た服着て、川岸とかでウェーイとかやっている連中が、神の子らなのだろうか。じゃあ、そういうモノ売っている企業は現代の宗教グッズを販売している、ということなのだろうか。
そこまで考えると、より、バーベキューをしている人たちを見ると物悲しくなる。
といって、バーベキューはひとりで出来ないし、お誕生日会もひとりでは出来ない。
ひとりでバーベキューグッズで肉焼いて、ビール飲んで、テント張って、ひとりでお誕生日おめでとうと書いた紙はって、色紙で輪っか作って、部屋の端から端に渡したり、三角の帽子被って、クラッカー持って、ひとりぼっちで部屋にいるというのは。

 

2015.07.24 Friday

 

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同じ価値観

うつ病で仕事を辞め、三十でアルバイトをして辛い、というのがあるけど、その悩みや苦しさは、自分の中に、それをダメだと思う(普通の人間はそうじゃないという)価値観が内面化されているからで、うつ病をダメ扱いし、いい年してバイトをする人を見下す人と、同じ価値観の中にいるということでもある。
いつの間にか人というのは、その「同じ価値観」の中にいる。それを補強する言葉だけでなく、それを批判する言葉も、それに対抗するかに見える価値観も、結局のところは言葉や論の運びはどうであれ、「同じ価値観」の中にいる場合が多い。
いつの間にか心が囲い込まれて苦しくなっている。ただ、これはたとえ頭ではわかった、わかっていたとしても、じゃあ心が抜け出せるのか、というと中々そうはいかない。ブログを見ていると、ブロガーから本を出す人もそうだが、抜け出せていないくせに、抜け出せている、楽に生きている、と何だか偽って生きているのじゃないのかな、と個人的には思う人が多い。楽になるのなら、抜け出せている、と思い込むこともわるくないけど、別に抜け出す必要はないと思う。
その自分たちが囚われている、生きている価値観を感じつつ?、違和感を抱きつつ?不安にとどまりながら、その中にいながらも、心を広げていけるものはないだろうか。ほんの一瞬でもいいから自由になれるものはないだろか。そういうものが(自分の場合うつ病で仕事を辞め三十でバイトで辛いと書いているけど、ただそう書いているだけのものではない)話が、うつ病で三十でみたいな人のある意味バカバカしい話を書きながら書けないだろうか。

 

2015.07.14 Tuesday

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1Q84

独裁者になったら何をしたいと訊かれ、「おっぱい法」を制定したい、私からお願いされたらどんな女性もわたしにおっぱいを一度は見せなければならない、という法律を作る、と言ったらお前バカじゃないのか、と言われた。四十歳にもなって、世の女性がわたしにおっぱいを見せたくて仕方が無くなる病気にかからないだろうか、と考えているのはいけないことだろうか。
しかし、そんなこと叶いはしない。叶うと逆に引くかもしれない。
朝目が覚めると、町のいたるところに巨大なおっぱいの彫刻が並び、明治通りの名前がおっぱい通りに変わっていて、ブラジャー横丁、貧乳市場、乳頭公園、乳輪広場などが出来ていたら。
わたしにはおっぱいの刺繡が無数に施されたマントが用意されている。なんか憂鬱だ。今日もこれを羽織らなくてはならないのだろうか、と思う時が来るのだろうか。ああ、ときにはおっぱいのない世界に行きたいとか思いはじめる。孤独だ。外を見ると、無数におっぱいが付いた高層ビルが見える。頭がおかしいんじゃないか、と思う。みんな狂っている。
とかくこの世は住みにくい。
こんな話誰も読もうとは思わない。
月が二つある世界だといいのに、なんでおっぱいが無数にある世界の物語だとダメなのだろう。

 

2015.07.13 Monday

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