薫の下流日記

日記、近況、習作、その他ゴミ置き場

専門学校卒のまじめなフリーターの子

そもそもそういうことを書こうと思ったのは、書いているのは、もう十五年ぐらい前かな、僕がうつ病から復帰して、ネットカフェとかでアルバイトをしていたときのことを思い出したり、書いてみませんか、なんて言われたりして、そのときのことを最近よく思い出したり、考えたりするからなんだよ。

その間、アルバイターから自称ライターなんかになって、東京に出てきて(うつ病になって仕事を辞めるまでのことを書いた)自分の本なんか出して、その本も絶版になって、今は東京の片隅で職を得て働いているけどさ。あのとき一緒に働いていた人たちはどうしてるんだろう、どうなってるんだろうなんて、考えるときもあるんだ。もちろん別に友達でもないし、仲なんて良かったわけでもないけどさ、どうなってるんだろうってね。風呂に入ってたり、何かぼーっとしているときにさ、ふっとそういう昔のこと、あるいはそのとき一緒にいた人のことを思い出してしまう、っていうのはなんなんだろうね。

僕は自分が体験したことを、自分を主人公にして、自分なりに書くことを求められるから、どうしてもその過程で自分の周りにいた人のことを書くことになるから、一から物語を作る人とは違って、こういうことを書いていいのだろうか、あくまで自分の目から見てこう見えた、こう感じたこととはいえ、何か書いたりすると、人を傷つけたり、人を貶めたりする可能性があるんじゃないか、と思ってしまうことがよくある。

編集者の人の中には、物語に書かれた他人は他人じゃなくて、それはあなたですよ、登場する人物は全員作者の分身だと思います、という人もいたので、その人の説によると、自分のことを書いているとも言えるんだけどさ。じゃあ僕はわざわざ自分を傷つけたり、貶めたりする、普通の時は見ようとしていない自分が映る鏡や、自分の胸に突き刺さる刃を作って、作らされて、半ば作ることを強要されたりもして、それで嫌な自分を映したり自分に刃物を刺したりって、どういうマゾなんだろうと、へんな気になったりして、いいから書けよなんて言われると、何か説明できない腹立ちが起こることもあるんだけど、それでもやはり何か書くというのは、別の人を傷つけたり貶めたりすることが、あると思うんだ。

とにかく自分が感じたことを思った通りに表現するというのは、表現の自由だっけ、いま僕たちがいる社会では一般的にはそれはいいことだとされているんだけど、自分が感じたことや思ったことを、感じた通り思った通りに、あるいはより多くの人に伝わるように(これは主に編集者とか出版社とかが介在するときに無意識意識的に求められるけど)書くことは、いいことなんだろうか、たとえば感動しましたとか、わたしの心に深く届きましたなんて言われたとして、それはいいことかもしれないけどさ、でもそれって、人を感動させることや深く届けることや多くの人に届けることは、果たしていいことなのかな(もちろんそう言われたとしたら嬉しいよ)、と思うことが多くて、だから僕は自分のことを書けなくなったというか、書いていい根拠を失ったというか、もともと自分の中にないんじゃないかと思って、こうじゃないこうじゃないって、それをすべて含んだ、それを支える何かを見つけようとして、見つからなくて、書けなかった十年(いや書いてボツにしつづけてたんだけどさ)近くだとも言えるのかもしれないけど、まあそんな僕の聞いてて退屈になる話は置いておいて、だいぶ話がずれたけど、人を書くっていうことだよ。

もちろんある人間のことをそのまま書くことなどできはしない。その人は言葉でできているわけではなないしね。肉とか骨とかとも違うのかもしれないけど、とにかく言葉でできてないものを言葉で表現するんだから、もう書いていけば、それはその人のことを書いているつもりでも、もう別のものになっているというか、どんなによく撮れた写真でも、ペラペラの紙や画像になった時点で、もうその人によく似た、別の何かになってるわけでね。その人はそもそも人間で、紙として存在しているわけではないんだからさ。

ただ、それを書いていけば、それはその本人のことではなくなってしまうとしても、書いている人間の体験を文章や物語として書いている以上、やっぱりどこかに実在のモデルがいたりするというか、もちろんその本人を表現するために書いてるわけではないから、それは言った一言があってるだけとか、何人かの人間を合わせて、一人の登場人物として出している、あるいは全然違う人になってたりするんだけどね。まあでもそれは書いている人間にとっては、それは本当にあったことなんだ。

また結局話がずれていってるけど、僕が何か思い出すのは、バイト先で一緒に働いてた、二十代前半ぐらいの、専門学校卒のまじめな、フリーターの子のことなんだよ。

冷凍マグロ

僕の行ってたFランク大学なんて、案外、そういう学生がたくさんいるんだ。偏差値の低い高校では、まじめで、そこそこ勉強ができた方なのかもしれないけどさ。講義があると、講義のある部屋の前の方の長机に必ず陣取るようなやつらで、とにかくまじめなやつら。大学の一年のはじめぐらいにはよく見かけて、教授なんかに気に入られようとなんかしてたりして、僕はあたしはまじめです、って全身で言っているようなやつらだよ。

いつ誰になんて言われたのか知らないけどさ、とにかくまじめであることが大事なんだ、一生懸命やることが大事なんだ、それが一番大事ってことをどこまで本気だかはわからないけど、信じ込んでいるようで、自分たちは間違っていない、正しい側の人間で、これからもそうやって生きていきます、って確信に満ちた顔をしていたりして、何なんだろうな、なんて言えばいいんだろうな、困っちゃうよな、という感じがするやつらだよ。

いったい誰に言われてそんなふうにしてるんだかわからないんだけどさ、ろくに勉強もできない、やれないやつらの中でまじめにはやったんだろうけど、とにかく自分は合格したなんて成功体験があるのかもしれないけどさ、とにかくまじめに努力することが報われるんだと、思い込んでで、端から見ててどうなんだろうな、と思うんだけど、とにかく自分たちはこの社会とか人生のルールをわかってて(親切な、自分は親切だと信じて疑わないような程度の、親だか先生だか先輩だかに言われたのか知らないけどさ、そんなやつらに言われたことを真に受けてるのか)、一生懸命そのルールをまじめにやってきます、って顔をしてるんだ。

まあ頑張れよ、って思うんだけどさ、でも僕だって心からそう思っているわけじゃあないんだ、本当にそう思ってるんなら、そんなやつのこと目に入ってもここで書いたりしないわけだしね。

でもさ、ルールだゲームだ、って言うけどさ、それって、そのルールやゲームの中で、強いやつらが勝つゲームのルールを、教えているだけだろ、って、思うんだ。その自分とやらは、親切なつもりだかしれない、塾講師だか、バイト先のブラック飲食店の正社員だが、誰だが知らないけどさ。そんなゲームのルールをこなせるようになったところで、弱い側の人間が、強くなれるのかってのが疑問なんだよ。弱い側が、大きく負けているやつが、ちょっと小さい負けになったからって、負けは負けだろ。結局は強いやつらにいいようにやられておしまいじゃあないのかな、って思うんだけどね。

そりゃあ大きな負けを小さな負けにすることは、本人に覚悟があれば立派なことだよ。でもそんなやつらにはそんな覚悟なんてありはしない。

まじめに言われたことをやっていればいつかは報われるんだ。報われて当然だ。当然、まじめにやってないやつよりもいい目に合う権利がある。そうじゃないとおかしい。間違っている。なんてけちくさい、結局自分がいい目をしたいだけの、けちくさいやつしかいやしない。

本当は勝ち負けじゃない方法、勝っても負けても関係ない方法、いや、勝ち負けは大事なことだけどさ、そんなけちくさいまじめさなんて(そりゃあ場合によっちゃあまじめさも、まじめな振りも必要だけどさ)どうなんだろうとなりはしないんだろうか。

だいたいそんなけちくさいまじめ君に、したり顔で教えているやつらも、いったい何を教えているつもりなんだろうね。何も教えてないのと同じじゃないか。そんなことで、何かを教えているつもりでいると平気で思えるやつらなんて、本当に何かを教えられるというぐらいに、まじめに何かを考えているんだろうか、何も考えていないのと同じじゃないか、何も考えてませんと言ってるのと同じじゃないかと思うんだけどね。

わたしは冷凍庫の中で、わたしはカチコチに凍った、冷凍マグロのような人間ですって、言っているのと同じような気がするんだけどね。とにかくそういうやつらに限って、あれこれ他人に指図したり、お説教したりしたがるから、本当にうんざりしちゃうんだけどさ。そんでけちくさいまじめ君が、またありがたがったり、目を輝かしたりしてさ。

でも君は、僕がこう言うと、冷凍にならない方法はとか、自由に海で泳ぐ方法はあるのでしょうかなんて言うけど、そんなものなんか。

 

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いつかこれを読む君へ

 僕がいまここに文章を書いているのは、この冬に僕はおかしくなって、アパートの部屋にひきこもり、誰にも会わない生活をはじめたからで、いっそのことこれまでのすべてをどこかにあらいざらい書いておきたくなったからだった。正直僕には話す相手がいない。
 でも、話す相手がいないと言っても、僕は別に森の中に一人で住んでるわけじゃない。閉めっぱなしのカーテンをめくれば、いくつか建物も見えて、その建物には窓がついている。今は夜だけど明かりがついているものもあるはずだ。周りに人は暮らしてるんだよ。
  でも、その暮らしてる明かりのしたに、誰がいるのか僕にはわからない。近所だというのにね。ここがそこそこ都会だからだろうか。そんな場所で、突然見知らぬ男が話をしませんかと訪ねてきたら、誰だって困ってしまうだろう。場合によっては警察なんかを呼ばれてしまうかもしれない。それぐらいはまだおかしくなっている僕にもわかってるんだ。つまりは何が言いたいのかというと、周りに人はいるけど、口をきいたりする間柄の人間は誰もいないということなんだよ。
  そりゃあ僕も、まったくひとことも喋らない毎日を送っているというわけじゃない。口をきいたりすることぐらいはあるんだ。アパートの部屋にひきこもっているといっても、完全にひきこもっていたら餓死してしまう。からだの調子が悪くて日に一度ぐらいしか食べていないといっても、食べていることは食べている。 つまりは真夜中だけどコンビニなんかに行って、最低限食べるものは買っているわけさ。そのとき店員なんかと買ったものの受け渡しぐらいはやっているわけで、ひとことふたことは何か言葉を交わすときもある。釣銭もらうときとか、お箸ご入用ですか、と言われて、要るか要らないか答えるとか。
 でも、 言葉を交わすと言ってもそれぐらいで、そこで突然自分のことを話し出すわけにもいかない。相手はコンビニの店員なんだからね。そりゃあ名札に、「ごとう」 とか書いてあるかもしれないけど、ごとうさんは日頃何してんのとか、仕事中に訊いたりし始めたら迷惑だし、深夜のコンビニ店員なんて、特にそんなこと人に話したくはないだろうしね。
 突然向かいの建物が爆発するとか、大地震が起こって店の中かぐちゃぐちゃになって、ごとうさんと協力しないと外に出られないとか、津波がやってくるのが見えたとか、そんなことでもない限りは、あくまで客と店員なんだ。それに大地震が起こったって、復旧すれば、またそれまでと同じになるだろうし、ずっと日本中が大地震にでもなれば、客とか店員とか関係なくなるかもしれないけど、誰もそこまでになるのは望んでない。大部分の人間は、ずっと客や店員であり続けるみたいな、そんな存在と役割を続けていたくて、誰とも話しなんかしたくないのかもしれないしね。僕だって目の前の店員に、いきなり何か話す気にはなれないんだ。
 だから結局こんな誰も見ていないネットの片隅に、これまでのことを自分なりにでも書いておこうと思ったわけさ。ノートなどに書いていたらなくしてしまうおそれがあるし、書いておきたい気はするけど、なくしてしまったらもう一度書く気力は起きない気もする。その点ネットだと、僕がいなくならない限りは、何度でもここにやってきて、これまであったどたばたについて、書いていくことができる。まあこれまでと言ったって、主にはここ三年ばかしに起こったことだけどね。
 でも誰にも話さないで、そしてもし自分もいつかそのことをはっきりとは思い出せなくなるときがくるのだとしたら、ここにでも書いておいた方がいいような気がしたんだ。なぜだかよくわからないけど。いまはそんな気がしている。
 ひきこもっててからだの調子は最低だけど、とにかく書けるだけ書いとけよ、ってもうひとりの自分が言っているような気がするから。いまはとにかく吐き出すように外に出してしまった方がね。